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山一証券の自主廃業について

by 松本直樹(1998年1月9日)

 1997年11月21日(土曜日)、山一証券の自主廃業が伝えられました。山一の従業員の方々には、まことにお気の毒です。しかし、一般のメディアでのコメントとは違って、これは日本経済および日本社会にとって順調な出来事だと思います。少なくとも、山一の倒産を取り上げて大蔵省を非難するのは、かなりねじ曲がった論理ではなかろうかと思います。

目次
1. つぶれたことがいけないか?
2. 今つぶれたことがいけないか?
3. ただし……
4. 大蔵省にとっては……
5. なぜ社長らはもっと交渉しなかったのか?
6. 公的資金の導入について
7. 何をするべきか?


1. つぶれたことがいけないか?   目次へ戻る

 この件を、何かいけないこと、あるいは困ったことのように報道するのが一般的だったように思う。しかし、何が“いけないこと”なのか?

 山一がつぶれたことがいけないのか? 従業員にとっては困ったことなのは確かであろう。また、四大証券の1つである山一の倒産は、現在の日本の金融業界の負っているダメージの大きさを象徴するものではあろう。

 しかし。山一が倒産すること自体は、当たり前ではなかろうか。補填、総会屋への利益供与、その挙げ句にトバシによる簿外負債の疑惑が語られ続けて来た山一。それが現に2000億円以上も簿外負債があったというのでは(もっと多額だという説も根強く語られているが)、市場主義の中で生き残っていけるわけがない。潰れるべくして潰れたとしか言いようが無く、潰れたこと自体はまったく“正常な現象”というに過ぎない。

 “正常な現象”について、大蔵省の責任も何も無かろう。

2. 今つぶれたことがいけないか?   目次へ戻る

 それにしても、山一が11月下旬に潰れたのには、意外に早かったようには思った。株価が200円を割ってからわずかしかたっていなかった(山一の株価のここ3ヶ月のチャートを見ると、11月6日までは200円以上を保っている)。また、現時点までの報道のとおりなら、(未だ)債務超過ではないと言う。

 昭和40年の山一への日銀特融の例にも見られるように、従来であれば、公的な救済融資が考えられた段階だろう。何しろ、こうして現実に破綻という形にした場合の日銀融資ですら、焦げ付かないということになっているのであるから、救済することにして、焦げ付かない予定のつなぎ融資をすることは十分可能な話だ。昭和40年当時と同じことが、まったく出来ないということもあるまい。

 これをせずにつぶしたのには、金融当局の一つの判断がある(信用商売なのだから、本来こうなって当然だとはいえ)。こうした判断に対しては、非難したい人は、非難することにもなろう。大蔵省の陰謀で潰された、という表現は失当であるにしても、救済しないという形で潰すことを判断したことは間違いないところであり、山一の従業員がこれを非難するのはもっともである。

 しかし、客観的に考えれば、救済しないのが正常である。少なくとも、正常な市場経済あるいは資本主義である。

 何がいけなかったかといえば、これまで潰れずに存続していたことである。山一のように粉飾によって生きながらえていたというのが犯罪であるのは論を待たない。もっと一般的に言って、超低金利という補助金により、潰れるべき金融機関が生きながらえていることが、現在の大問題である。

3. ただし……  目次へ戻る

 しかし、本当に“債務超過ではない”のだろうか? という点については、かなり怪しいとは思う。山一の系列各社に倒産を余儀なくされるところが出るはずで、そうしたところへの貸付債権が焦げ付くのが必至である。その結果、山一本体が債務超過に陥る可能性が相当にあると思う。拓銀もそうなっているようだし。

4. 大蔵省にとっては……  目次へ戻る

 さて、山一の倒産をもって大蔵省を非難するのはあたらないにしても、山一が倒産したことは、大蔵省にとっては凶事であるには違いない(記者会見に出ていた大蔵省の長野証券局長は、なんか嬉しそうにも見えたけれど、不思議だ)。

 一つには、もちろん、日本の金融業界の負っているダメージの大きさを象徴するものだからだ。

 今一つには、大蔵省の権力の縮小を意味するからである。それも2方面に意味がある。まず、特別的ないし個別的な意味。破綻金融機関を救済すれば、そこに対しての大蔵省の権限は絶対的なものになる(昭和40年以降の山一自身がその例である)。極めて直接的な権力の拡大である。今回それはしなかったし出来なかった。加えて一般的な意味がある。破綻金融機関に対して救済があるなら、金融機関経営者は、株主の方を向くことなく、大蔵省の方だけを向いて経営をするべきことになる。今回のように救済がないなら、こうした動機付けは働かない。

 今回の山一倒産の関係で、昭和40年当時に田中角栄大蔵大臣が日銀特融の発動を発表する映像が繰り返し報道されていた。立花隆の説明を読むと(立花氏の1997年10月22日の講演、田中角栄の政治手法について、官僚の権限を強めることにより自己の権力を強化するもの、と説明する)、この対比は極めて示唆的だ。田中角栄だったからこそ、大蔵官僚の権力を増大させる特融がなされた、今回は違った、という構図に見えてくる。

5. なぜ社長らはもっと交渉しなかったのか?   目次へ戻る

 弁護士として不思議に思ったのは、山一の経営者たちは、破綻の前に金融当局らに対して交渉しようとはしなかったのだろうか? ということだ。交渉材料はある。一般顧客に対しての債務不履行を含むデフォルトを生じさせることだ。もちろん、そんなことをしても山一にとって益ないし得があるわけではない。しかし、金融当局としては困る。ならば、交渉材料になる。

 経営者としても従業員の利益代表としても、自主廃業するくらいなら、この交渉材料には現実味がある。記者会見で“従業員は悪くありません““従業員の再就職をよろしくお願いします”と号泣するくらいなら、交渉力はあったように思われる。

 もちろん、こんな交渉はしないのが、社会人としては正しい。しかし、トバシと呼ばれる粉飾経理という重罪を既に犯している人たちが、“毒を食らわば皿まで”と考えなかったのが、私にはむしろ不思議だ。国会での証言でも、大蔵省などをむしろ擁護するような発言をしていたのは、なおさら不思議だ(こういう意味では、あの証言は本当の内容だったのか、とも思われてくる)。

 それに、こうした交渉は、私は反社会的だと思うが、皆がそう考えているわけではないようである。少なくとも、“信用秩序と金融システムは公共財だから”とか言って公的資金導入を求めている銀行関係者は、これと同種のことをやろうとしている。

6. 公的資金の導入について  目次へ戻る

 そう、山一の倒産を契機に、公的資金を投入して金融恐慌を回避しなければならない、とかいった議論が力を得て来ている。確かに、金融機関の信用力が乏しくなっている現状は、資金配分に不都合を来す。対処が必要な状況ではある。

 しかし。だからといって、救済との名目で、個々の金融機関に金を出すというのはおかしい。個々の金融機関を救済しようとすること自体が間違っている。個々の機関については、倒産するべきものは倒産するのが望ましい。そうしてこそ再編と効率化が進む。救済すること自体がいけないのに、その目的のために金を出すなど、もっとおかしい。金融機関に金を出すなど、それ自体が不公正である。

 山一の倒産劇を冷静に見れば、個々の機関を救済するべきではないことが明白に見えてこよう。山一の倒産は、メリルリンチの大規模な参入などを促し、金融業界全体としての効率化を進めつつある。仮に、個別金融機関の救済のために公的資金を導入したら、こうした効率化を妨げることになる。

 もちろん、山一のシステムにはそれなりの価値はあったであろうから、それが解体によって失われることにはなろう。しかし山一の組織には、その価値以上に負の価値があるのだから(この事実は、救済合併しようという金融機関が存在しないことによって証明された)、解体するのがトータルで国民経済的に利益のあることだ。

 だいたいが、個々の機関の救済のために資金を投入するべきでないことは、バブル崩壊後数年を経た現在の状況が実証しているとも言える。これまでの超低金利は、金融機関への補助金であり、潰れるべき金融機関がそれによって生きながらえてきた。その結果が現状である。

7. 何をするべきか?   目次へ戻る

 今なすべきは、潰れるべき機関を早く整理することだ。個々の金融機関が倒産することが問題なのではないのだから、これは当たり前だ。問題なのは、取引相手たる金融機関が倒産する可能性があると皆が考える現状だ。潰れるべきところが潰れてしまえば、この状況は解決する。

 早期是正措置の1年間猶予などが提言されているが、全く逆だ。潰れるべきところを迅速に片づけることこそ、解決の道だ。


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