「逃亡者」と拡大する連邦の権限

「逃亡者」と拡大する連邦の権限

松本直樹

 1で「法律事務所」に関して説明したように、連邦の権限は本来は限定されたものなのですが、現実には、拡大の一途をたどっています。「逃亡者」に出てくる連邦保安官補の権限が広いのは、その結果の1つであると説明できるでしょう。しかも、「逃亡者」については、そのストーリー自体が変遷してきており、この事実も連邦権限の拡大を物語っているようです。


目次
1 あらすじ
2 疑問点
3 基本的な犯罪の対処は州の役割
4 刑法規定の細分化
5 連邦保安官補が登場した理由
6 連邦の権限の拡大と州際通商条項
7 連邦商標法
8 盗品の州際輸送
9 ニューディール政策と連邦最高裁
10 連邦権限の拡張
11 連邦の重要性の高まり
12 ハリウッドの政治スタンス


1 あらすじ

 イリノイ州シカゴの医師キンブル(ハリソン・フォード)は、血管を専門とする外科医である。ある日キンブルが手術の後深夜帰宅すると、妻は、片腕の不審な男におそわれて瀕死の状態で、その後まもなく息を引き取った。

 キンブルは警察の捜査に協力して事情聴取を受け片腕の男について供述するが、妻の最期の電話での言葉を誤解した警官たちは信用しない。捜査官は、キンブルのいう片腕の男の存在を信じようとしない。それどころか、彼自身が妻殺しの疑いをかけられてしまう。キンブルの弁護士は、片腕の男を一応は探そうとするが、見つからない。そして、あろうことか、キンブルは死刑判決を受ける。

 ところが、キンブルが護送される途中、他の囚人が逃走を試みた結果、事故が起こる。その機に乗じてキンブルは逃げる。

 逃げたキンブルを、連邦保安官補ジェラードが追う。キンブルは、逃亡を続けながら、妻を殺した片腕の男を懸命に探す。そしてキンブルは事件の驚くべき背景を発見する。

2 疑問点

B: この映画の筋立ては、法制度の点からすると、少し変かもしれないね。気がついたかな?
A: ?? 別に何もおかしくなかったと思うけど? また細かいこと言うんでしょ。
B: まあ、そう言われればそのとおりなんだけど。でも、大事なことだと思うんだけどな。問題点は、「ザ・ファーム/法律事務所」のときと同様に、連邦制度に関係があるんだ。はっきりした説明はなかったけれど、キンブルがはじめに捕まって有罪判決を受けるのは、州の裁判所でしょう? それなのに、護送車から逃亡した後に彼を追跡するジェラードは、連邦保安官補(Deputy U. S. Marshal)ということになっている。ヘンだと思わない?
A: なるほど。そう言われれば、ヘンな話かもしれないわね。
B: 僕の調べたところだと、このストーリーは、元の原作とは違っているんだ。見ようによっては、この変遷に、時代の移り変わりが反映されているのかもしれない。この辺りを含めて、全体的な解説をしてみよう。

3 基本的な犯罪の対処は州の役割

 前章でも説明したように、米国は連邦制国家であり、基本的には各州こそが国家であるという建て前を持っています。刑事法については、この“建て前”が現に生きています。窃盗だとか殺人だとかは、州法上の犯罪とされており、州法にしたがって州裁判所で裁かれます。

 当然のことながら、刑法の内容も州ごとに違っています。たとえば、キンブルが宣告されてしまったようにイリノイ州では死刑がありますが、死刑がない州も多くあります。たとえばお隣のミシガン州も、死刑がない州の1つです。これでは不平等ではないかと思われますが、そういう議論は余りされていないようです。“州こそが主権国家であり、刑法も州が決める”ということが大前提となっているためではないかと思われます。

 日本では、限られた範囲で地方自治体の条例による処罰がありえるのはともかくとして、全国に同一の刑法が適用されます。したがって、米国の場合の州の間の相違のようなものは生じないはずです。

 しかし実際には、量刑に地域差があると言われています。法定刑の幅が広いので、こうしたことが問題となる可能性があるのはたしかです。数年前に、大阪高等検察庁の検事長が“東京に比べて関西の裁判所の量刑は甘い”と批判して議論をよんだことを御記憶の方もあるでしょう(1986年11月13日付け読売新聞朝刊参照)。その後の法務省の調査でも、死刑判決の割合が大阪高裁管内では東京高裁管内の約4分の1であるなど、相当の格差が見られます(1987年6月11日読売新聞朝刊参照)。

 地域差が生じてしまうのは、裁判官が量刑の際に、その裁判所の先例を主要な参考にすることに原因があります。量刑の参考のためには、全国的な統計などの用意もあるのですが、単なる統計では、事案の詳細を知ることができません。事案の具体的な事情を考えるためには、自然に、その裁判所の最近の事例を参考にすることになります。同じ裁判所の最近の事例とバランスがとれないのでは困るということもありますから、こうしたやり方自体には非難するべきところはありません。しかし、これが過ぎると、裁判所によって量刑基準がバラバラになっていってしまうのはたしかです。これが検事長の批判の対象になったわけです。

 こうした日本での状況と比較すると、米国では州ごとに違いがあって当然であるとしているのですから、随分な違いがあると思います。これは“州が基本的な主権国家であるということが生きている”ということの現れであると見ることができます。

 このように州ごとの刑法が基本ですが、これに加えて連邦法による刑事罰があります。たとえば前章の郵便詐欺は、連邦法にしたがって連邦裁判所で裁かれることになります。しかし、こうした連邦法の規定は限られたものであり、実際にも、典型的な犯罪(盗みとか殺人とか)の大部分は州法で州裁判所により裁かれています。

 「逃亡者」でキンブルが死刑判決を受けるのは、単純な第一級謀殺ですから、当然のことながら州裁判所でのことでした。問題はその後の追跡劇の登場人物です。

4 刑法規定の細分化

 ところで、上で「第一級謀殺」といいましたが、連邦の権限の問題の前に、こうした刑法の規定の仕方について御説明しましょう。

 米国では一般に、故意による殺人(homicide)を、事前の計画(malice aforethought)の上でのものである謀殺(murder)と、それのない激情的なものである故殺(manslaughter)とに分けます。多くの州では、謀殺をさらに2つの級(degree)に分けています。毒によるなど周到な準備に基づく場合や、他の重い犯罪行為の手段として謀殺をした場合(felony murder)を、第一級謀殺(first degree murder)とし、それ以外のものを第二級謀殺(second degree murder)とします。なお、イリノイ州では、第一級謀殺が原則のように規定されており(SHA 720 ILCS 5/9-1)、とくに第二級謀殺の要件が「証拠の優越」の程度にまで証明された場合に第二級謀殺とする(SHA 720 ILCS 5/9-2)という仕組みになっています。

 日本だったら、これらはすべて殺人として1つの条文(刑法199条)でカバーされてしまいます(もっとも、強盗殺人罪(刑法240条)が死刑または無期懲役だけを法定刑として規定しているなど、いくつかの結合犯の規定には第一級謀殺罪などに少し似たところがあります)。これと比べると、米国の刑法規定は随分と違っています。

 このように細かく分けることには、陪審制を考えると特別な意味があります。陪審制では、事実認定は陪審の役割です。陪審による評決で有罪となった場合に、いくらの罰金にするのかどれだけの長さの懲役にするのかといった量刑については、裁判官が決めることになっています。ところが、どの類型の構成要件を充たすか(たとえば第一級謀殺なのか第二級謀殺なのか)は、事実の問題とされるため、陪審制がとられた場合には、それを決めるのは陪審の役割となります。ここで、罰条が細かく分かれていると、罰条が決まることで実際の刑の重さもほぼ決まってしまうことになります。すなわち、陪審が相当程度まで量刑も決めてしまうのです。そうなると、陪審員の方でも、純粋な事実認定をするというよりは、それだけの処罰をするべきものかどうか、ということを考えることになるのが避けられません。単純な事実認定とは到底いえない判断をすることになります。

 イリノイ州では、第一級謀殺の中でとくに、死刑を宣告しうる加重要件となる事実が特定されています(SHA 720 ILCS 5/9-1(b))。この事実についても、陪審制の場合には陪審が認定をすることになります。こうした場合には、より一層明らかに、要件を充たしているかどうかを純粋に判断するのではなく、死刑にするべきかどうかを考える、ということになってしまいます。

 映画「逃亡者」では、キンブルの妻の死因は鈍器による頭部の打撲と見られますから、この点からは死刑にはならないと思われます。おそらくは、妻の資産を奪うことを目的としていたとされて、こちらの点で死刑の類型に該当するものとされたと見られます(SHA 720 ILCS 5/9-1(b)(5)または(11))。

5 連邦保安官補が登場した理由

 映画「逃亡者」は、1963年に放映されたテレビドラマが基になっています。映画版をテレビ版と比較すると、骨格は同じなのですが、いろいろと違いがあります。そうした違いの1つとして、キンブルを追うジェラードの肩書きが変わっていることがあります。

 テレビドラマのノベライゼーションを見ると、ジェラードの肩書きは州警察の警部とされています。そもそも、ジェラードはキンブルの妻の殺人事件の担当者であり、キンブルを死刑判決に追い込んだのも彼です。その彼が特別に護送までを担当していたところ、事故が起こってキンブルは逃亡します。それをさらにジェラードが追跡する、というのがテレビドラマの筋立てです。

 ところが映画のジェラードは、連邦保安官補(Deputy U. S. Marshal)ということになっているのです。映画のノベライゼーションの訳者は、この変化に言及していて、これは広い活躍が必要になったためではないか、と説明しています(訳者あとがき)。

 たしかに、こうした趣旨があるのかもしれません。ジェラードに追われたキンブルが、救急車を奪って逃走した後に、追いつめられてダムに決死のダイビングをする場面がありますが、あのダムは、イリノイ州から州境を南に越えたケンタッキー州のもの(バークレー・ダム)であることになっています。そこを追跡して、さらにシカゴに戻ってきたキンブルを自ら追い続けるのは、たしかに州の警察ではできないことであり、連邦の機関である必要があります。

 しかしそれにしても、連邦の権限の問題があるはずです。前章で説明したように、連邦の機関は連邦憲法に由来する権限しか有しません。話の都合だけで連邦の保安官に置き換えてしまうのは、正確さという点では問題があります(もっとも、映画のお話のことですから、都合で不正確なものになっても不思議でもないかもしれませんが)。

6 連邦の権限の拡大と州際通商条項

 キンブルは、州境を越えてケンタッキー州に逃れましたから、これが連邦政府の権限の根拠となりえます。しかし、ストーリーの展開の仕方をよく見ると、これが基本的な理由となっているとは思われません。キンブルが州境を越えて逃げる前から、事故が起こった直後から追跡を中心的に指揮したのは、連邦保安官補であるジェラードなのですから。

 考え直してみると、鉄道事故が逃亡の端緒であることが根拠になっているのかもしれません。映画では、護送バスが事故を起こして、鉄道線路の上に転落してしまうのです。そこに列車がやってきてバスは大破します。州外に接続した鉄道については、州際通商条項に基づいて連邦が権限を持っていますから、鉄道事故についても連邦による捜査の対象になります。

 これでジェラードの追跡には、一応は理屈を付けることが可能だと思われます。しかし、州の護送バスからの逃亡を連邦の役人が基本的に同一州内で(一旦はケンタッキーとの州境を越えますがその後シカゴに戻ってきており追跡の大部分はイリノイ州で行われています)いきなり追跡してしまうというのは、やはり普通ではないように思われます。

 テレビ版と映画版との間のこの差異は、結局、歴史的な変化を反映しているということを考えに入れないと理解できないのかもしれません。テレビの頃に比べても、現在では連邦の権限が拡大しており、このような場面で連邦保安官補が出てきても必ずしもおかしくなくなってきている、ということです。

 歴史的には、大筋で連邦の権限は拡大の方向にあります。拡大といっても、連邦憲法のどれかの条項を根拠としなければなりません。もちろん、連邦憲法を修正することによることも可能ですが、改正手続が難しいこともあって(連邦憲法5条: 連邦議会の両議院の3分の2による提案の上で各州の4分の3の立法府によって採択される必要がある)、こうした修正はなされていません(修正14条5項等、公民権法の基礎となっている条項の追加はありますが)。主に憲法解釈の変遷によって連邦の権限が拡張されてきたのです。その場合に最も活用されてきたのが、州際通商条項です。

 州際通商条項とは、連邦憲法1条8項3号の「外国との通商および各州間の通商、ならびにインディアン部族との通商を規制すること。」という規定のことです。この条項が、現在ではほとんど無限定と思われるほどに広く解釈され、広範な連邦法の根拠とされているのです。

 州際通商条項に基づく連邦刑事法としては、ホブズ法(Hobbs Act; 18 USC 1951)が広い規定になっています。ホブズ法は、公道(highway)上における強盗などを、州際通商に対して妨害を与えるものとして処罰することを規定する連邦法です。

7 連邦商標法

 州際通商条項の解釈が変化して、連邦法制定の可能性が広がってきている現実は、様々な法分野で見られます。連邦レベルの商標法も、その1つです。

 商標法というのは、いわゆるブランドを他の人による偽物に対して守る法律です。米国では、現在では連邦での商標法がありますが、これは古くからのことではありません。かつては、州単位の商標法とそれに基づいた登録制度だけがあったのです。現在でも各州に商標法がありますが、それだけでは不便なのは明らかです。現在では、連邦レベルでの商標法であるいわゆるランハム法(15 USC 1051-1127)がありますが、同法が制定されたのは1946年のことであり、これが実質的に初めての連邦商標法なのです。

 これ以前にも、連邦商標法の試みがなかったわけではありません。しかし、連邦憲法の問題があったのです。1870年にも連邦商標法が制定されたのですが、州際通商に関係した範囲に限るという限定がなかったこともあって、これは憲法違反で無効とされました。当時は、一般的な商標法を制定することは連邦議会の権限ではないとされたのです。

 現行のランハム法については、連邦憲法の州際通商条項によって認められるものであると理解されていますが、これにはかような問題がありえるのです。こうした歴史を考えると、前章1.6で紹介した“米国は特許をとくに重視している”という説明も、あながち間違いとばかりもいえない、という考えもあるかもしれません。商標についてはこのような不都合を残している一方で、特許については十分な手当をしているのですから。

8 盗品の州際輸送

 ところで、1982年6月に明るみに出て世間を大いに騒がせたIBM・日立産業スパイ事件を御記憶でしょうか? この事件の捜査機関はFBIだったわけですから、日立および三菱電機のエンジニアに対する嫌疑は、当然に連邦法違反でなければなりません。これが、連邦憲法の州際通商条項を根拠とした連邦法違反の一例になっています。

 この事件では、FBIがオトリ捜査をして日立および三菱電機のエンジニアをつかまえたわけですが、そこでの嫌疑は、IBMから盗み出された資料(次期大型コンピューター3081Kについての機密情報を記したもの)を買い取ろうとした、というものでした。盗まれたものをそれと知って買うということですから、日本の刑法でいえば、256条2項の贓物(ぞうぶつ)故買罪に相当するものです。

 FBIがこれを捜査できたことからわかるように、こうした行為も連邦法違反になることがあります。すなわち、盗品を州境を越えて輸送すること(interstate transportation of stolen property)が、連邦法違反となっています。同じ贓物故買でも、1つの州の中に止まっている場合については州法違反にしかならないのですが、州境を越える場合には(外国へを含む)、連邦法違反となるのです。州境を越える場合であれば、連邦憲法の州際通商条項に基づいて、これを処罰する連邦法を制定することが認められるわけです。

 なお、このオトリ捜査事件はこのように“買おうとしたものが盗品だったこと”が犯罪を構成する前提となります。この点が、オトリ捜査の中でも特殊なものとして問題になりました。すなわち、FBIがIBMから実際に盗んできたというのならともかくとして、IBMの協力を得ていたという場合には、それは“盗品”ではないのではないか、ということが問題となるのです。この問題は結局、被告らが司法取引に応じたため、決着がつくことはありませんでした。

9 ニューディール政策と連邦最高裁

 州際通商条項の解釈の歴史においては、ニューディール政策が重大なエポックとなっています。

 大恐慌後の不況を打破するためにルーズベルト大統領がとった政策がニューディール政策であることは、日本人にとってもよく知られています。しかし、これにまつわる連邦憲法上の問題、さらにはルーズベルトと連邦最高裁の間の争いについてはどうでしょうか? ニューディール政策がきっかけとなって、連邦憲法の(とくに州際通商条項の)解釈に大きな変化が生じたのです。

 ニューディール政策の内容は多方面に及ぶもので、かならずしも一貫性のあるものではなく、その性質をどうとらえるかには議論があります。しかし、ニューディール政策によって政府の経済的機能が著しく強化されたことには異論がありません。

 連邦最高裁はこれらの施策のための法律のいくつかを、当初、違憲無効としました。たとえばシェクター事件(Schechter Poultry Corp. v. United States, 295 US 495, 55 S.Ct 837 (1935))では、鶏肉業者に対する規則を定める権限を全国復興局に与えていた連邦法が違憲無効とされました。この事件では、規則に違反した鶏肉業者が起訴されたのですが、その業務は一地方で鶏肉の販売をするだけのものだったため、連邦の権限は及ばないとされたのです。これはまた、“連邦憲法に列挙された事項だけが連邦政府の権限であり連邦議会が制定することの許された法律のすべてである”とする連邦制度を前提として、ニューディール政策の内容たる経済的な機能を広範に果たすことは、連邦政府に認められた機能ではない、としたことにもなります。

 これに対抗してルーズベルトが、連邦最高裁の“詰め替え(court packing)”をしようとしたことは、米国連邦憲法史に有名なところです。連邦最高裁の裁判官は、大統領が指名して上院の承認の上で任命することになっていますが(連邦憲法2条2項2号)、連邦裁判所の裁判官の数を実質上15名まで増やすことによって(当時の定員は現在と同じく9名)、ニューディール政策を支持する裁判官を連邦最高裁に新しく送り込み、それによって判例を覆そうとしたのです。

 米国の連邦裁判所の裁判官の任期は終身であり(連邦憲法3条1項)、原則として、死去するか自ら引退するまでその地位に止まります。しかも、最高裁裁判官さえも比較的若くして指名されることが多いために、実に長年にわたって(たとえば30年以上)最高裁に居続ける例がまま見られます。日本の最高裁の場合には、70歳の定年がある(憲法79条5項に基づく裁判所法50条)上に、かなりの高齢で指名されることが通常であるため、数年だけ待てば裁判官の殆どが入れ替わってしまいますが、それとは違うわけです。そのため、ルーズベルトとしては、自分のニューディール政策を実現するためには、裁判官の定員を増やして新しく最高裁裁判官を指名する必要があると考えたわけです。

 連邦最高裁の裁判官の数は、連邦議会による通常の法律の形で決められています。当時、ルーズベルトは非常に高い支持率を集めていましたから、この法改正は必ずしも難しいこととは思われませんでした。しかし、結局この試みは失敗しました。連邦最高裁裁判官の定員は、当時も現在も9名です(ただしその前に一時的に10名だったことがあります)。

 ルーズベルトにとって皮肉だったのは、憲法史に汚名を残してまで実行しようとしたこの試みに失敗したにもかかわらず、それから間もなく裁判官の引退および死去が相次いだため、現実には多くの最高裁裁判官指名の機会にめぐまれたことです。ルーズベルトは結局、詰め替え作戦の失敗から4年の間に実に6人の最高裁裁判官を指名する機会を得ました。

10 連邦権限の拡張

 連邦最高裁は当初、上記のシェクター事件などで、ニューディール政策の連邦法のいくつかを違憲無効としました。こうした憲法解釈は、それ以前の判例を踏襲したもので、法律的には正統と見られるものでした。従来からの判例法によれば、州際通商条項に基づく連邦議会の権限は、州際通商に直接に関連する事項に限られていたのです。

 しかし、こうした憲法解釈は、詰め替え計画とは関係なく、間もなく変更されました。最高裁も、連邦議会の広い立法権限を認めるようになったのです。そのさきがけとなったのは、NLRB 事件(NLRB v. Jones & Laughlin Steel Corp., 301 US 1, 57 S.Ct 615 (1937))です。同事件で最高裁は、州内の製造業者に対する連邦法による規制も、その製造業が州際通商に密接で実質的な関連性を持っている限りで認められる、としたのです。

 州際通商条項をこのように解釈すると、連邦議会に極めて広範な権限を認めることになります(必要とされる「関連性」の程度にもよりますが、実際に厳しいものになってはいません)。この解釈の変化は、現実社会における必要性に応じたものであると考えられます。すなわち、修正資本主義の必要性、それも連邦レベルでの経済への介入が必要になっているという現実を無視できなくなったということです。

 とにかく、ニューディール政策がきっかけとなって州際通商条項は極めて広く解釈されるようになりました。連邦の権限は、その後も拡大の方向にあります。「逃亡者」のストーリーの変遷は、そのひとつの現れではないかと思われるのです。

11 連邦の重要性の高まり

 さて、映画「逃亡者」では、逃亡するキンブルを追いかける敵役の主人公であるジェラードは、連邦保安官補ですが、敵役としては他にもシカゴ市警ないしイリノイ州の警官が何人か登場しています。これらの登場人物の描かれ方を見ると、ジェラードおよび連邦保安官事務所のその他の人間と、シカゴ市警ないしイリノイ州の警官の間には、随分な違いがあるとお感じにならなかったでしょうか?

 ジェラードが敵役とはいえ大変に有能なのに対して、シカゴの警官は、率直にいって無能です。それなりの困難があったとはいえ、片腕の男をまったく見つけだすことができず、あろうことか被害者であるキンブルを死刑にしてしまうのですから。一言でまとめれば、この映画の登場人物は“州の役人は無能なのに対して、連邦の役人は有能”です(もちろん、連邦の役人以上の英雄は、すべての権力を向こうにまわして逃亡と片腕の男の追跡を続けるキンブルですが)。

 こうした対比は、現在の一般の米国人にとっては、十分に受け入れが可能だと思われます。しかし、現在ではそうですが、少なくとも数十年前は違っていたのではないでしょうか。元来は、米国では各州こそが主権国家なのであり、連邦はオマケのような存在であって、そう偉大なものではなかったはずです。せいぜい現在の国際連合のような存在だったようです。初代大統領ワシントンの伝記などを見ると、連邦大統領さえも、ほとんど単に独立戦争のための存在であり、さして重要な役職ではありません。まさしく分権的だったわけで、それが現在では随分と中央集権的に変わったのです。これに合わせて首都ワシントンの地位も大いに向上しました。数十年前のワシントンは、現在に比べて随分と寂しい街だったと言われています。よく耳にすることですが、米国では一般的に“政治の中心が経済や文化の中心にはならない”と言えます。ニューヨーク州の州都はいわゆるニューヨークではなくオルバニー(Albany)ですし、カリフォルニア州の州都はロサンジェルスでもサンフランシスコでもなくサクラメント(Sacramento)です。いずれも、政治的機能以外には見るべきものの乏しい、比較的小規模な都市です。以前のワシントンは、これらの州都と同様に、連邦の首都ではあるけれど、余り注目されることもない都市だったのです。

 いったいいつから変わったのでしょうか? もちろん、長い歴史を経て徐々に変わってきたのでしょうが、たとえば今世紀前半においても現在よりも遥かに分権的だったように見られます。その一例として、連邦最高裁の裁判官に、どのような経歴の人物が選ばれているのかを見ることができます。昔は、州裁判所の裁判官から連邦最高裁の裁判官が選ばれることが相当に多くありました。もちろん、上院議員など連邦の機関からの選任もありましたが、ホームズ(Oliver W. Holmes)やカルドーゾ(Benjamin N. Cardozo)など高名な連邦最高裁裁判官の相当数が州裁判所から選任されていますし、ヒューズ(Charles E. Hughes)のように元ニューヨーク州知事という例もあります。とにかく、最高裁の前は州の機関で働いていたという例が目立っていたのです。それが近頃は、連邦の機関から選任されている例が続いています。この変化は、連邦の機関の重要性が高まっていることを表しているように思われます。重要性が高まっているために、そこに人材も集約している、ということです。

12 ハリウッドの政治スタンス

 上記のような、中央集権化の傾向は、映画の中では、ハリウッドの政治スタンスのために一層すすんでいるのかもしれません。ハリウッドには連邦支持的なところがあると思われるからです。

 まず、ハリウッドの傾向として、民主党支持の場合が多いということがあると思います(例外的にはレーガン大統領のように映画俳優出身で共和党ということもありますが)。民主党支持ということの内容を考えれば、リベラルで、同時に大衆迎合的ということです。ハリウッドは人気商売で、しかも必ずしもハイブロウではない観客に受けることが大事ですから、こういう傾向になるのも当然と言えます。

 少なくともニューディール政策の時代以降は、民主党が比較的大きな政府を是とするリベラルな主張を持っているのに対して、共和党が小さな政府をとなえる、という構図が定着しています。こうした構図の中で、ハリウッドには、民主党支持の方向があるのですから、これは連邦政府の役割の強化に賛成することにもなります。よりストレートには、“地元の有力者によって牛耳られている州に対して、よりリベラルな連邦”というイメージから連邦贔屓になっている、とも言えるかもしれません(水戸黄門を思い出させられる面があります)。

 映画「逃亡者」に見られる連邦を支持するかのような筋立ては、こうしたハリウッドの傾向の現れの1つであるように思われます。


 ワーナー・ブラザーズ制作、1993年作品。

 テレビドラマのノベライゼーションは Roger Fuller, The Fugitive / Fear in a Desert Town (1964). 同翻訳はロジャー・フラー『逃亡者』(一ノ瀬直二訳・ハヤカワポケットミステリー948・1964年)。なお、同翻訳書のカバーの記載によればテレビドラマの「原作」ということになっているが、実際はノベライゼーションであると見られる。

 映画のノベライゼーションは、J. M. Dillard, The Fugitive (1993). 同翻訳は『逃亡者』(入江真佐子訳・ハヤカワ文庫・1993年)。

  2010年8月14日(土)、htmlの体裁を修正(行間を設定など)。


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